時々、ほんの些細なことで鬱々とします。
あぁこれなんだろう?なんかつらいな。しんどいな。
で、掘り下げてみると罪悪感なんです。
大抵いつも私にはそんなに関係なくて、私は傍観者の立場にいるのですが、誰かが困ったことになったりするとこの罪悪感がムクムクと頭をもたげてくるのです。
その罪悪感と言うのが、
- 私のせいかもしれない
- 何で私が何もしなかったんだろうと誰かに疑問を持たれるかもしれない
- 私が悪いと非難されるかもしれない
- 皆から非難されてここには居られなくなるかもしれない
という感情を含んでいます。
要するに究極私は死ぬかもしれないまで行くのです。
これは日本は古の昔から、島国村社会でその部落にいられなくなることは即「死」を意味していたので、日本人のDNAにはそういった罪悪感が組み込まれていると何かで読んだことがあります。
前回の記事で臆病な自分を受け入れるというのはやってみましたが、これはまた違う感じです。もう一段深いというか。よりコアに近づいてる感じがします。
今少ししんどいので、認知行動療法っぽく自分を癒してみようと思います。
さて、今回のことで周りの人に私は悪者扱いされると思っているが、それは本当にそうだろうか?
―本当かどうかは分からないけれど、可能性はあるかも?
ではもし本当にそうだとして、それはこれから一生続くことだろうか?
―一生は続かない。周りの人は多分2~3週間もすれば忘れてしまうと思う。それでも気にしてしまう。
周りの人に私が悪いと言われて、何がそんなに怖いのか?
―悪者と言われて孤立するのが怖い。
孤立の何が悪いのか?
―過去に孤立して毎日死にたくなるような日々だった。あそこに戻りたくない。
と一旦ここで考察に入ります。
私は過去のつらい記憶のせいで認知行動療法で言うところの「結論の飛躍」という認知の歪みが生じているようです。
まず今回の出来事でみんなが私のことを悪く思っているという思考は、「心の読みすぎ」でありみんなが自分に対して悪感情を持ったと早合点してしまっています。
そしてこのことで今後自分は孤立してしまうという不安は「先読みの誤り」で事態は確実に悪くなると決めつけてしまっています。
再びここで自分に問いかけてみます。
本当にそうだろうか?私は今回のことで孤立するだろうか?それは私の思い込みに過ぎないのじゃないか?周りの人がそんなに私に注目しているだろうか?
私には認知の歪みが生じています。これは大なり小なり確かです。もし本当に私に悪感情を持つ人がいたとして、それは全ての人ではないし、そう思われたとしてもそれで私の何かを変えることはできないはずです。
それなのに私は誰かに悪感情を持たれたら、私の人生が崩壊するという認知の歪みが生じていたんです。
そんなわけないです。
ちなみに私は今回の件で初動は間違えたかもしれませんが、できる限りのことはしました。私は自分の良い面を完全に無視していました。そっちにフィーチャーしたら私はできる良い人のはずなのに、自分がした善行は全くなかったことにしていました。
自分を過小評価しているんです。
ちょっとずつ落ち着いてきました。
こういった認知の歪みが、放っておくとどんどん大きくなって、自分では手に負えなくなることもあるのですよね。
「自分は今認知の歪みが生じている」と自覚するだけでも救いの第一歩だと思います。
ちなみに参考にした本はデビッド・D・バーンズ著「いやな気分よ、さようなら」です。
|
この本のおかげで、過去辛い状況から抜け出せたと思っています。
今回再び手に取ってみて、私にはまだ必要なんだなと感じました。
でも少し気分が楽になりました。
おすすめです。